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私たちの死生観:どう生き、どう死ぬか

俗にいう健康体の人が言う
『こうやって死にたい』は『生きていたい』
に等しい

と最近思うのだが、皆さんも『死』について一度は考えたことがあると思うので、今日は『死生観』について書こうと思う。

人生100年時代と言われるように
病気を早期発見すれば
治療を受けることができ
治る時代だ。

現代の1番の死因は
コロナでもインフルエンザでもなく
圧倒的『がん』であるが
そもそも約80年前までは『がん』による死因は
ほとんどなかった。

日本では戦後、平均寿命が延びるにしたがって死因の第1位にがんが登場するようになる。

医学の発達によって、乳児死亡率は極端に低くなり、ほとんどの人が成人して、がんの早期発見により、90歳、100歳まで生き、知識があれば、晩年に起こりうる骨粗鬆症による骨折や認知症に備えて準備をすることもできる。

昔よりほぼ確実に長生きし、病院や薬は今まで以上に必須となる人が増える。

だが、死の直前まで健康でいれるわけでもなく、そもそも人は死に方を選べない。

『酒を飲みすぎて死にたい』
とか
『脳卒中で倒れたらそのまま逝かせてくれ』
とか
言えるうちの『死にたい』は
人格や尊厳を保ったまま『生きていたい』と聞こえる。

今回は宗教などによる
死んでも魂は生きているなどの話は置いておいて、
『死』とは誰のものであるか。

もちろん、死後、その人の生きた証を残すことはできるが、
死んだ人間は死を認識できない。

もしかしたら
酒を飲みすぎて倒れたとしても
病院に運ばれ、思うように歩けないまま
余生を過ごすかもしれない。

けど周りは中々死なせてくれない。 

生きるという概念も
死ぬと言う概念も
本人が決めたい。

苦しみから逃れて楽になりたいだったり
人生に満足したからもう悔いはないだったり

苦しみから逃れるため
人生に満足したから
どちらも生きる理由にも死ぬ理由にもなる。

が、結局、人は死に方を選べない。

であるならば
自分はどう生きる?

なるべくやりたいことをし、
なるべく健康なものを口に入れ、
なるべく運動をして、
なるべく沢山の人に与えることができる
なるべく悔いのない生き方をしよう

と思う。

© 2023 春口あかね